コトバの壁をよじ登る

静かにフィルムの上映が終わり、会場の後方にうっすら灯りが点る。 

天井の低い会議室のような空間に、わたしを含めた数十人ほどの観客が等間隔に座っている。各々が眼を擦り、伸びをし、体勢を立て直す。或いは連れ合いとぽつりぽつり言葉をこぼしている。そうやって皆、指示が来るまでの時間をやり過ごしているのだ。

会場が薄暗いまま、数分は経過しただろうか。たいした時間じゃあない。しかし待つ場合の体感時間は異様に長いものだ。人口密度故のぬるい空気も不快さを増し、観客たちのざわざわの粒は次第に大きくなる。

 

数列挟んで左斜め前、最前列の奥に白髪混じりの外国人男性が座っている。彼方此方から湧き出す日本語の粒々の中、不安げな面持ちで慎重に辺りを見渡している。

彼が何処から来て、何語を母国語とするのかわたしにはわからない。ただ、こんな時に英語が話せたら…そう思った。

 

ふと彼の表情がほころぶ。視線の向こうには日本人らしき女性。彼女はスクリーン傍のドアから入ってきて、彼に小さく手を振った。ふたりは静かに歩み寄り、込み上げる感情を少し大袈裟な身振りで表現した。 

知り合いがいたのか。よかった。

微笑ましい気持ちで眺めていると、ふたりはそのまま、手をあざやかに操り会話を続けた。

…手話だ。
言語は口からのみ発音されるものでないと改めて実感した瞬間だった。鳥肌が立った。

そして彼女の手話通訳でフィルムの質疑応答が始まる。

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これは私が5日前に見た夢の話。

現実の手話は万国共通じゃないし、英語が母国語がでない国は多い。また日本語以外の言語も同様に、地域によって訛りや表現方法の違いがある。分かり合う為のハードルは低くない。

でも大事なことは、やらない理由じゃない。歩み寄り分かち合う心じゃあないか。言い訳づくめのわたしの口から溢れる耳触りのいいそれは、なんとも説得力がない。


この夢を見て、記事を推敲している途中、私は一本の映画とまた鳥肌の立つような出会いをすることとなる。この映画の話はまた後日に。

おわり。